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『リトアニアからの熱い思い』2012-4-2
『リトアニアからの熱い思い』
前駐リトアニア日本国大使 明石美代子
私はこの2月、3年8カ月にわたる任務を終えリトアニアから戻ってまいりました。残念ながら日本では一般的に言ってリトアニアという国はまだまだ知名度が高くありません。ですから私がリトアニアの話を始めるときには、バルト海に面した旧ソ連邦の国、「日本のシンドラー」杉原千畝領事代理がリトアニアの当時の首都カウナスにあった日本領事館で執務していたこと、そしてナチのユダヤ人迫害から多くの在欧のユダヤ人を救ったことなどについて話したりしています。また最近日本ではユネスコの世界遺産に対する関心が高まっていますので首都ビリニュスが世界遺産に指定されていると付け加えることにしています。中にはベルリンの壁崩壊の年の8月23日に起こったバルト三国 の『人間の鎖』をテレビ報道で見たという方々もおられます。その『人間の鎖』とは当時まだソ連邦の一部であったリトアニア共和国市民がエストニア共和国、ラトビア共和国の市民とともに、時間をあわせ北はタリンからリーガを経てビリニュスを結ぶ全長650キロの高速道路に集まり手をつなぎ文字通り人間の鎖を作り独立を訴えたのです。当時、この3つの共和国間の交信はソ連当局の厳しい統制下にあり、特に反体制運動は更に厳しく制圧されていたことを考えれば『人間の鎖』の完成は奇跡に近いこととして世界中に報道されました。当のバルト3国自身にとってはこの『人間の鎖』の成功は大きな自信となり、連帯して独立回復を勝ち取る運動へと向かうきっかけになったことは間違いありません。
600キロに及ぶ人間の鎖
Baltic Way, 23 August 1989. 600キロに及ぶ人間の鎖
Photo–Jonas Juknevičius (Lithuanian Central State Archive)
リトアニアの人口は約320万人、首都ビリニュスは約55万人、西はバルト海に面し、北にラトビア、南はポーランドとロシアの飛び地カリニングラード、東・南東はベラルーシに囲まれた国で我が国の6分の1、北海道よりやや小さい領土をもつ国です。
1991年エストニア、ラトビアと共に長いソ連支配から独立を回復した国ですが、13世紀には大公国として出現しバルト海に面する一帯を支配,最盛期の15世紀はバルト海から黒海に至る広い領土を持ち、バルト三国の中では最も長い独立の歴史を持っている国です。しかしその後はポーランドとの連合を経て、三度の領土分割の結果18世紀末から1918年までおよそ120年に及ぶロシア帝国支配が続きました。そしてロシア革命後の1918年に達成した独立は1940年のソ連侵攻により� �ずか20年強で奪われ、その後ドイツに、そして再びソ連に支配・編入されるという複雑な歴史を歩んできました。それゆえ独立回復を果たした1991年以来今も自らの歴史を振り返りながら独立国としての誇りと自信を忘れまいとする努力があらゆる分野で続けられています。
実は我が国とリトアニアとの関係は1921年にさかのぼります。 しかし、1940年のソ連編入から1991年10月の外交関係再開までの間は両国関係は断絶しておりました。1997年首都ビリニュスに日本国大使館を設置、大使は駐デンマーク日本国大使が兼轄し、臨時代理大使が駐在していましたが2008年大使館を格上げし、私が初代本任大使として常駐することになりました。天皇陛下からの信任状奉呈式では、当時のアダムクス大統領は歓迎スピーチの中で天皇皇后陛下の� ��訪問に続いた日本からの初代本任大使着任を高く評価し深い感謝の気持と両国関係の未来に大きな期待を表明しました。そして式典に続く懇談ではたいへん暖かく私の手を握り「貴使のおいでを本当に長い間待ち続けていました。お目にかかれて喜んでいます。ようこそ」と述べられました。失礼ながら私はそのような歓迎の言葉は儀礼上の言葉と淡白に受けとめていました。しかし必ずしもそうではないことをその後離任の時まで折に触れ改めて思い起こさせられることになりました。リトアニアとしてはそれほど日本からの駐在大使を待ちわびていたということなのでした。
ところで私の信任状奉呈のすぐあとロシア大使の信任状奉呈が予定されていましたが、正にその当日朝になってキャンセルになっていました。その理由に� ��いていろいろな憶測がありましたが、アダムクス大統領自身が昨年末出版した回想録の中で次のように説明しています。リトアニア語から英語に翻訳してもらったものを日本語に訳しますと「2008年6月30日、私は前代未聞の外交措置をとらなくてはならなかった。 本日、日本国大使とそれに続きロシア大使の信任状奉呈が予定されていたが、私は外交顧問に対しロシア大使の信任状奉呈をキャンセルするよう指示した。 ロシア人のハッカー行為により、リトアニアのインターネットはロシア語や、ロシアの国旗やロシアのシンボルであふれている、このような状況の中で外交的な会話など出来るものではない。私はこのような行為を許さないと決意した。」
信任状奉呈の記念写真を改めて見直しますと大統領の表情が幾分緊張して いると言えなくもありません。結局ロシア大使の信任状奉呈は2週間後に実施されました。もともとアダムクス大統領はパルチザンとして第二次世界大戦後もソ連占領後のリトアニアからドイツにのがれ抵抗を続け、その後米国に移住してリトアニアの独立運動を支援した人ですので、その反ロシア精神は筋金入りです。
当時既にNATO、EUへの加盟を果たし独立回復後の経済発展もある程度達成し一息ついていた時にロシア側の情報撹乱の嫌がらせ、そしてロシアのグルジア侵攻はリトアニアに衝撃をもたらしたことは明らかでした。
実際、2008年8月のロシアによるグルジア侵攻ではアダムクス大統領は直ちにエストニア、ラトビア、ポーランドに呼び掛け現地に飛び世界に向けロシアに対する徹底的非難を発信し、その後外相をグルジアにそしてEUに向かわせEUからより厳しい対ソ非難を導き出すため速攻外交を展開するなど、ロシアに対する払拭しがたい警戒心を見せつけていました。
その年の10月総選挙で生まれた中道保守の現政権は親米、 積極的EU・NATO外交を展開し、2012年までの外交綱領では小国リトアニアの生き残る道として、自由と民主主義という価値観を共有する国々との連携強化、ベラルーシ、ウクライナ、グルジアや南コーカサス地域の民主化推進を支援して仲間を増やすこと、またアフガニスタンやイラクにおける社会復興への支援などによって国際社会での存在感を示すことなどが決められております。翌2009年アダムクス大統領が引退した後、国民は女性の大統領グリバウスカイテを選出しましたが、同大統領は財務相、財務担当EUコミッショナーを歴任し外交官としての豊富な実績を生かしながら精力的に外交路線を継続しております。
独立20年の小さな国ですが昨年2011年には民主主義共同体閣僚会議とOSCE閣僚会合を相次いで開催し、ホスト国として の役目を無難にこなし、今年はバルト三国協力、北欧バルト8カ国協力の議長国のほか、2013年後半のEU議長国としての役割を果たすため活発な外交活動を進めております。更に国連においても第67回国連総会の議長ポストへの挑戦、2013年の国連安保理非常任理事国選挙への立候補など野心的外交日程が続きます。
さてこのような環境の中、私も先ずはとにかくvisibilityを高めることを第一に、リトアニア国内の視察・巡回で可能な限り広範囲にわたり多くの人々と交流することに努めたわけですが、誰に会ってもどこに行っても予想をはるかに超えた歓待ぶり、メディアのインタビュー攻めにはうれしいと同時に戸惑いを感じるほどでした。正直なところリトアニアでは日本のプレゼンスは未だまだ小さく、進出日本企業数は僅か4社� �在留邦人は58名にすぎず、地理的な距離感がそのまま人の交流の少なさに反映されているので、日本に対する関心をいかに掘り起こし高めるかが優先課題と考えていましたので、それはうれしい見当違いでした。
それにしてもなぜこれほどの親日感があるのか、日本文化に対する熱いまなざしや憧憬は半端ではありません。自己流ながら生け花や,日本庭園、墨絵を楽しんだり、
日本の伝統武道を修練したり、また老若男女が俳句を作って楽しんだりしています。大統領や政府要人、国会議員,経済界トップのほとんどから「日本は私たちの夢です、あこがれです。」「日本はお手本」といわれます。何を企画しても大変な人気なので外交団の間からその秘訣を問われたこともありました。本当になぜなのか、実はそこにはきちんとした理由があったのです。
リトアニアの皆さんが挙げる理由は世代により多少異なり、また日本の経済力、技術力が素晴らしいからという無難な回答もありますが、驚いたことに100年以上も前の日露戦争での日本の勝利を挙げる人が多いことです。今の日本人にはぴんと来ない話だと思います。当時のヨーロッパ諸国にとっては遙か彼方のアジアの小国日本が強大なロシア帝国との戦争に勝ったことは相当のインパクトを持って受け止められたようでした。この傾向はバルト地域を含むポーランドや北欧諸国に見られるようですが、特にリトアニアでは長い間ロシア帝国の圧政に苦しんでいた若い愛国者達に大きな勇気と希望を与えたようです。なかでも愛国心に燃えるステポーナス・カイリース青年は
日本こそリトアニアがめざす目標との思いから、当時日本関係資料が整っていたサンクト・ペテルスブルグからロシア語の資料を取り寄せリトアニア語版の小冊子3冊に書き直し出版したのです。その小冊子は今もビリニュスの国立科学アカデミー図書館に保存されています。そういうリトアニア語の書物があったからこそ「日本」に対する特別な思いがたとえ細々であっても100年という歴史の荒波を乗り越えてリトアニアの人々の心に残ったのだと思います。
最近ノンフィクション作家の平野久美子氏がこの「日本論」を紹介する著書『坂の上のヤポーニヤ』を出版しました。当時のリトアニアにとって日本はそれこそ"坂の上の雲"だったのでしょう。
そして次に挙げられた理由は、日本はナチスのユダヤ人迫害から在欧のユダヤ人を助けた杉原千畝領事代理の国だからということです。
当時リトアニアの首都であったカウナス市内には杉原領事代理が執務し居住していた建物が残っております。
11年前から現地の非営利団体・杉原財団がカウナス市やカウナス大学の支援をえながら杉原ハウス(仮称)として運営しています。建物は日本領事館の内装を残した展示場とカウナス大学日本学センターからなっておりますが、展示場は我が国政府の支援もあり充実した内容となっております。
日本からの訪問者はもちろん、世界各地からユダヤ系の人々が訪問し、カウナス市の有力な観光誘致スポットとなっております。
日本に対する親日感情の根拠となる3番目の理由は、リトアニア独立回復直後に日本政府が実施した技術協力や文化無償協力への深い感謝の気持ちです。特にソ連撤退後の新生リトアニアにとって音楽アカデミーでの楽器や、国立美術館,コンサートホールなどの視聴覚装備には手が回らなかった状況でしたので、文化無償協力による日本からの支援は大きな効果をもたらしました。先の歴代臨時大使の賢明な選択に感謝しなくてはなりません。幸運にも私はその果実の恩恵に浴したわけですが、それほど日本の支援が多くの国民から喜ばれ感謝されているという点を私たち日本人は知っておかなければなりません。
もうひとつ忘れてはならない歴史的事実を指摘する人々もいます。先の大戦後ソ連のリトアニア占領がはじまると同時� �大量のリトアニア人がシベリアに追放されましたが、生死をさまよっていたリトアニア人を助けたのがシベリア抑留中の日本人だったということです。私も生存者から話を聞く機会がありましたが、日本人の勇気から生きる力を得たと語っていました。今でも多くの人々がシベリア追放の暗い過去を抱えている現実を見れば、シベリアでの日本人との心の絆が日本のイメージ形成に資していると考えても不自然ではありません。
このような親日的なリトアニアにとって昨年の東北大震災は信じられないほどのショックで受け止められました。震災を知った多くの人々は大使館の前に花束を置き沢山のローソクに灯がともされました。何かしたいがどうしたらいいのかという電話が殺到しました。お見舞いの言葉や千羽鶴の束が届けら� �、義捐金運動、チャリティコンサート,ミサなどが各地で開催されました。なかにはリトアニアへの移住を勧める意見も聞かれ、優秀な日本人をぜひ受け入れたいと真剣に提案する人々にも会いましたが、リトアニア市民にとっても他人ごとではない気持ちが強く伝わりました。
現在リトアニアではエストニア、ラトビアと共に原発建設計画を進めていますが、震災後の福島原発事故はむしろ日本人の技術力の高さを再評価させることとになり、日本企業(日立・GE社)と真剣な交渉を続けております。2月末クビリウス首相は日本政府からエンドースを取り付けることを目的として訪日し首脳会談を行いました。原発建設はリトアニアにとりエネルギー安全保障の最重要案件であり早い時期の契約成立を目指しています。そうなれ� ��確かな背景に裏付けられたリトアニアの日本に対する熱い思いも日本に伝わり両国関係は急速に発展していくものと信じております。そしてこれからは日本とリトアニア両国が情緒的な関係から戦略的互恵関係に展開しながら、共に信頼するパートナーとして世界の平和と安定のために貢献することを強く願うもので、またそれは両国が描く将来像であると確信します。(3月26日寄稿)
※本文に記載している内容は個人的見解に基づくものです。
『欧州債務危機の中で』2012-3-7
『欧州債務危機の中で』
欧州連合日本政府代表部大使 塩尻 孝二郎
(EUにおける議論)
EU(欧州連合)は、ギリシャの債務問題に端を発した深刻な債務危機に直面している。この危機を乗り越えるための対応策とともに、EUの進むべき方向、統合を進めるのか、どのような形で統合を進めていくのかについて、真剣な議論が、ブリュッセルを中心にEU各国で盛んに行われている。「欧州財政連合」、「欧州財政安定連合」、「欧州財政移転連合」、「複数のスピードの欧州連合」、「欧州政治連合」、「欧州連邦」、「欧州合衆国」等々の言葉が、議論の中で行き交っている。
EUの萌芽は、14世紀に遡るとされる。第二次世界大戦後、ECSC(欧州石炭鉄鋼共同体)発足(1952年)、EEC(欧州経済共同体)発足(1958年)、EC(欧州共同体 )発足(1967年)、そして1993年にEUが発足した。通貨については、EMS(経済通貨制度)導入(1979年)を経て、単一通貨ユーロ導入(1999年)へと、深化してきた。加盟国数は、ECSC当時6ヵ国であったが、その後徐々に増え、東西冷戦終焉後は旧ソ連圏の12ヵ国が加盟し、今や27ヵ国と拡大した。来年にはクロアチアが加わり、28ヵ国になることが予定されている。
こうしたこれまでの深化、拡大の道のりも平坦なものではなく、EUは、歳月をかけ幾多の試練、困難を乗り越えてきた。その中で、これまでも統合のあり方について幾度となく議論がなされているが、今回は特に切迫感をもって議論されている。EU統合の「深化」の議論に拍車がかかっている。
(EUの原動力)
欧州委員会、欧州議会が所在しているブリュッ セルには、米国ワシントンと並んで有力シンクタンクが多くあり、また、多数のロビイストが活動している。欧州委員会には、3万4千人の所謂ユーロクラット、欧州議会には、754人の議員、その議員をサポートする6千人のスタッフがいる。EU加盟27カ国は、それぞれ、大きな陣容を擁する常駐代表部をブリュッセルに置いている。また、EUの首脳会議、閣僚会議が頻繁に開催され、さらにいろいろなレベルで、様々な分野にわたり多数の会議が行われている。
そうした中で、凌ぎを削って議論し、答えを探し求め、一緒に何とか前に進もうとしている。それが、これまでのEUの発信力、影響力、付加価値をつける力に繋がっていると痛感する。今回も、深刻な危機に直面し、これを乗り越え、さらに前に進んでいくために、懸命に凌ぎを� ��り、知恵を出し合っている。
「危機が大きな分だけ統合の危機を克服した後の統合の度合いも大きいものになる」というEU関係者の言葉が印象に残る。
(日本とEU)
日本は、現在、EUと経済連携協定(EPA)および政治協定を結ぶための交渉に入る準備を行っている。日本とEUは、民主主義、基本的人権の尊重、法の支配等の基本的価値を共有し、「豊かな、競争力のある、持続可能な、活力のある社会の構築」をそれぞれが共通して目指している。経済面では、財政の健全化、経済の活性化、少子高齢化、産業競争力の強化、新興国の台頭、資源エネルギーの安全保障といった課題に、政治面では、地域の平和・安定、民主化の推進・定着、核・大量破壊兵器の不拡散、テロの根絶といった共通の課題に取り組んでいる。
日本とEUは、世界にお� ��るその重み、影響力、果たすべき責任にかんがみて、その関係をさらに強化することの必要性が訴えられてから久しい。日本とEUそれぞれが、立ち向かっている課題を懸命に乗り越え、前に進もうとしているこの時期こそ、日本とEUの関係をさらに強い関係にする好機である。日本とEUがEPAおよび政治協定を結び、さらに高い次元に関係を昇華する好機を逃してはならない。
※本稿は筆者の個人的見解です。 (2012年3月5日寄稿)
『大震災とサッカー「聖地」への招待』2012.2.16
『大震災とサッカー「聖地」への招待』
駐英大使 林 景一
独立宣言は何を言ったの?
大震災の後の支援活動については、世界中の在外公館で館を挙げて取り組みが行われ、様々な感動的な話があると思う。そういう「いい話」の一つとして、昨年11月24日、被災地からの16人の高校生(岩手、宮城両県から各5人、福島から6人)が、ロンドンのウェンブレー球技場に招かれてサッカーをしたというお話をご紹介したい。
(「東日本大震災復興支援 被災地高校生サッカーマッチ」 という電光掲示板も掲げられた)
私は、高校、大学とサッカー部に所属し、7年間、文字通りエネルギーと時間をこのスポーツに注いだ。そういうサッカー好きにとって、ウェンブレー(Wembley)というのは「聖地」である。私が高校一年生の時、1966年のワールドカップ・サッカーがイングランドで行われ、地元イングランドがドイツ(当時西独)を破って優勝する。その決勝戦を含め、主要試合が行われたのがウェンブレー球技場であり、その後大改装されたが、今でも、国際試合か、カップ戦の決勝など重要な国内試合にしか使用されない特別の球技場である。私も、国際試合やカップ戦を数回観戦に行ったが、9万人収容のスタジアムには独特のオーラがある。球技場関係者によれば、代表でもない普通の選手がここで試合を許されたという記録、記憶� ��ないとのことであった。
昨年、大使としての信任状を女王陛下に捧呈して二週間余の3月11日、東日本大震災が発生し、その後、在英大使館も、館を挙げて、情報発信、弔意受付と謝意表明の手紙書き、義援金募金活動の支援などに追われた。ウェストミンスター寺院での追悼式には二千名近い人が来てくれたし、「英日婦人会」と被災児支援のために行った公邸でのバザーには五百名近くの参加者を得て、一日で25万ポンドを集めたりもした。
そういう数ある支援活動の中で、サッカーの母国から、サッカーで被災者を支援するというのは自然な発想であった。新任大使として、各方面に挨拶回りをすることになっていたが、その中に、イングランド・サッカー協会(Football Association。略称FA)のバーンスタイン会長への表敬訪問を組み込んだ。同時に、震災支援についてお願いをしたいということも申し添えた。バーンスタイン会長は、やはり新任で、ワールドカップ招致活動敗退後の協会立て直しに多忙を極めていたが、快く応じてくれた。
当日、ウェンブレー球技場の中にあるFA事務局本部での約30分の表敬は、予定時間を大幅に超過して1時間にもなった。私は、東北の被害状況を詳しく説明した。会長は、ニュースを丹念にフォローしており、細かい質問をしては、大変なことだと唸り、また、日本国民の冷静で規律ある対応がすばらしいと賛辞を繰り返した。最後に、私は、日本大使として、また一人のサッカーファンとして、世界のスポーツであるサッカーの面で、特に発祥の地イングランドから 何か支援がなされればすばらしいと思うので、ぜひご協力をお願いしたいと述べた。会長は、大震災については心を痛めており、何かできないかと思っていたところであった、ハント文化・スポーツ大臣からも手紙を受け取っており、貴使来訪に合わせて何かできないかと検討してきたところである、として、その場で3項目の支援策を提案してくれた。すなわち、①イングランド代表のサイン入りユニフォームの寄贈、②近くウェンブレーで行われる、イングランド・オランダ戦という好カードのボックス席切符(12人分)の寄贈、そして、これは少し大きいが、と前置きして、③ウェンブレーのピッチの半日使用許可、という三点である。
このうち、前二者については、先述の大使公邸でのバザーに寄贈され、計4000ポンドで売れた� �問題は、ウェンブレーのピッチ使用権であった。この贈物ついては、全く予想しておらず、正直なところびっくりして、どうしてよいか分からなかった。当初、私は、権利を企業や個人に買ってもらって義援金を集めるという案に傾いていた。しかし、11月24日(木)という平日の午後の日にち指定や、大勢の観客を入れないという条件がついていたこと(恐らく、観客を入れると、多数の警備、清掃要員を動員せねばならず、FAにとって多大の負担が生じるため)もあり、紆余曲折を経てお金集めのアイデアは断念した。その代わり、被災地の高校生チームを招いて、日本代表でもなかなかプレーできない「聖地」でサッカーをしてもらうという、「お金で買えない思い出」をプレゼントしよう、そして、そのことを報道してもらって被災 地に激励のメッセージを送ろうというアイデアに辿りついた。しかし、これにも多々関門があった。
まず、選手の選抜である。どこにどう接触して誰が誰と試合するかを選ぶのかが皆目見当がつかず、手がかりもなかった。ところが、運のいいことに、8月末に、たまたま小倉日本サッカー協会会長の来英があった。これは、戦前にFAから、日本サッカー普及のために日本協会に寄贈された銀杯が、戦争で行方不明となったのを、同協会創立90周年に当たり、FAが復刻して再寄贈するための式典出席が目的であった。滞在中に食事をご一緒した際、大使館作成の企画書を提示して、恐る恐る協力を求めた。会長は、その場で全面的な協力を快諾、選手選抜は、被災地三県の各サッカー協会が調整してくれることになった。また、宮城県出� �の元全日本代表、加藤久氏を監督として派遣していただけることになったのは、特に心強かった。これで一気に動き出した。まさに銀杯贈呈式様々であった。
復刻銀杯贈呈式 (左から筆者、サー・ボビー・チャールトン、小倉会長、バーンスタイン会長)
次は、資金の確保である。もちろん当初の予算はゼロであった。まず、在英日本商工会議所にお願いして共催を引き受けてもらい、企業に協力を呼びかけてもらった。曲折はあったが、最大の難題であった渡航費用について、全日空から、選手・役員18名の日英間往復フライトの無償提供というまことに有難い申し出があった。日本サッカー協会が、国内移動費用を負担してくれた。ロンドンでの滞在費用も大きな悩みであったが、帝京ロンドン学園との話し合いで、同校高等部サッカーチームに被災地選抜チームの対戦相手となってもらうこととし、同時に、全寮制である同校の寮に選手たちを受け入れ、宿泊と食事を無償提供してもらうことが合意された。対戦相手と滞在費問題が一挙に解決した。ロンドン観光を含む� �スでの移動や昼食代などその他の費用も、他の多くの支援団体、日系企業のサポートでまかなわれることとなった。
選手・来賓の集合写真
当日、ウェンブレーは、英国の冬らしい、寒くて変わりやすい天気であったが、幸い雨は降らなかった。観客こそ、帝京ロンドン学園関係者、報道関係者などごく限られた人たちであったが、立派な来賓が来てくれた。まず、ハント文化・スポーツ大臣が多忙の中、来場してくれ、主催者側を代表する私の挨拶と、バーンスタインFA会長の挨拶に続いて、スピーチをしてくれた。それも日本語であった。若い頃日本で生活したことがあるとはいえ、5分ほどの長さの日本語の挨拶を原稿なしでやってくれた。自ら被災地を訪問したこと、実はサッカー線審のトレーニングを受けていることを明らかにし、「本当は自分がこの試合の線審を務めたかったのですが、公務で時間がなくて残念です。ただ、今日は自分の先生たちが線� ��をしてくれます。」と言って審判用のイエローカードとレッドカードをポケットから取り出し、「こういうカードは見たくないので、フェアプレーをしてください。」とユーモアも交えながら激励をしてくれた。ロンドン五輪を担当し、次代の首相候補の呼び声もあるだけのことはあると思わせた。
激励挨拶をするハント大臣
それから、人気チームのマンチェスター・ユナイテッド(マンU)の伝説的名選手である、サー・ボビー・チャールトンも、わざわざ当日車で3時間かけてマンチェスター市から駆け付けてくれた。サー・ボビーは、1966年ワールドカップの覇者イングランド代表チームの中心選手であり、同年の欧州最優秀選手、常勝マンUひと筋で、チームをリーグ優勝や欧州選手権など数々の栄冠に導いた人物である。同時に、彼は、1958年、ヨーロッパ選手権のためマンUの選手全員が乗った飛行機が、ミュンヘンの山中に墜落し、多数の死者が出た「ミュンヘンの悲劇」の生存者でもある。また、日本にとっても、2002年ワールドカップ招致の支援をしてくれるなど、日本サッカー普及の恩人の一人でもある。
しかし、超多忙の人気者である彼が偶然にそこに来てくれたわけではない。先述の日本サッカー協会小倉会長の来英時の復刻銀杯贈呈式に、たまたま私もサー・ボビーもゲストとして招かれていた。その際、ダメ元で、被災地高校生を招いたチャリティ試合があるので、ぜひ来賓として来てほしいと頼んでみた。彼は、趣旨を聞くと、その場で手帳を取り出して日程を確かめた上、11月24日の欄に、自らJapan/Wembleyと書き込んでくれたのだ。これまた銀杯贈呈式のお陰である。
激励挨拶をするサー・ボビー・チャールトン
さて、自らもdisasterから生還して偉大な選手となったサー・ボビーは、震災の生存者である若き選手たちに、自分は福島の「Jビレッジ」(サッカーのナショナル・トレーニングセンター)の名付け親であるとして、日本のサッカーとの絆を紹介した上で、選手たちと同じように、自分が十代でウェンブレーで初めてプレーをした時の経験を交えて、激励のスピーチをしてくれた。そして、寒風の中、試合を最初から最後まで観戦し、終了後には、自ら一頁目に署名したサイン帳を選手一人一人に手ずからプレゼントしてくれた。試合中、日本人の若い選手たちのプレーの水準が、往時に比べて高くなったことを称賛していたのが印象的であった。
選手たちを代表して、齋藤一樹主将(福島県立小高工業高校3年生)が、� �々たる英語で、臆することなく、「最後の一秒まで諦めることなく全力でプレーします。」と挨拶をしたのがすばらしかった。試合後、「最初はウェンブレーでプレーできることの実感が湧かなかったが、ピッチに立ってみて鳥肌が立った。家が壊されて避難所を転々として、サッカーを諦めかけたが、諦めなくてよかった。これからも一生続けて行きたい、」という彼の声を聞いて、私は、このチャリティ・イベントの目的は達成されたと感じた。
東北選抜チーム斎藤一樹主将の挨拶
試合では、東北選抜チームが、対戦相手の帝京ロンドン学園チームとロンドン・ジャパニーズFCチームに圧勝した。イエローカードが一枚も出ない、フェアな試合だった。最後まで誰もが力を抜かず、諦めない試合をしてくれた。彼や彼の仲間たちが、このイベントの思い出を胸に、一生サッカーを楽しみながら、力強く、そして粘り強く被災地の復興と再生に貢献してくれることを祈りたい。
Goalへ!!!
サッカーは、疑いなく世界で最も人気のあるスポーツである。ルールがもっとも簡単なスポーツであり、ボール一つでできる。だから世界共通の言葉にもなる。そうした真のグローバル・スポーツ、サッカーの発祥の地、イングランドで、多くの人の善意によって、このようにすばらしい被災地支援イベントを実現できたこと、その場に立ち会えたことを幸運に思っている。同時に、もう少し若かったら、ゲスト・プレーヤーとして、1分間でもよいので、ウェンブレーのピッチに自分も立って、東北選抜と一緒にプレーしてみたかったなと、ふと思ったのは、不謹慎であろうか。(以上は、筆者の個人的感想、見解である。)(2012年2月13日寄稿)
『2011年を回顧して』2012.1.26
『2011年を回顧して』
国連代表部次席常駐代表 兒玉和夫
2011年という年は、戦後未曾有の大災害を我が祖国日本に
齎した東日本大震災を抜きには語ることはできません。他方、小職は、その時、ニューヨークの地にあって、我が祖国の同胞がくぐり抜けざるを得なかった試練を体感することなく、申し訳ないような気持ちと、同時に、日本からの情報を毎日驚愕と鎮魂の念で懸命にフォローして来ました。まず、東日本大震災について、NYにあって考え、感じた所を記します。次に、国連という場から見た「アラブの春」を中心とする世界情勢について申し述べ、私の所感とさせて頂きます。
1. 東日本大震災について
(1) 東日本大震災は、日本のみならず世界全ての国にとって驚愕すべき大災厄(英語では、cataclysmic disaster)でした。質量共に国際情勢を報じる世界第一級の新聞、NYタイムズ紙は、小職がフォローした限りでは、3月12日から4月23日までの一ヶ月半の間、一日たりとも途切れることなく震災、津波災害及び東京電力福島第一原子力発電所事故放射能汚染災害に関する記事(論説、解説を含め)を掲載し続けました。恐らくNYタイムズの歴史上、これほど長期間に亘って徹底的に日本について報じたことは未だかつてなかったに違いありません。
(2) そうした報道において、世界は、大災害に直面した日本人被災者が、苦難の真只中にあっても礼節を重んじ、人間としての品格を保持し続け、ストイックなまでに悲しみに耐え、互いを支え合い、復旧/復興に立ち上がる姿を賞賛しました。また、日本人は、世界中の人々がこれほどに被災した日本人のことを気遣い、寄り添ってくれていることに感動し、そこに「絆」の大切さを身にしみて感得したに違いありません。
(3) 同時に、国連の場においてひしひしと感じたのは、そうした日本への支援/共感は、人道的考慮からだけではなく、日本政府、日本人自身が戦後営々として実践してきた途上国の開発/国造り支援、更には、アチェ沖地震・津波大災害、四川省大震災、ハイチ大震災等に際しての、献身的な緊急人道支援活動を常々実践してきていることへの感謝・お礼の気持ちから発していることです。彼らは、日本による人道・開発支援への感謝の念を口にしつつ、政府、国民、NGOがそれぞれ「貧者の一灯」を日本に差し伸べるのは当然の行動であると述べてくれました。戦後日本は、世界の平和と繁栄に対し、開発援助を実践してきており、また、ここ20年間は、PKO活動への参加という形で、「徳」を積み重ねてきた歴史があります。
国連に集う150� �国を越える開発途上国の外交官はそのことを正当に評価してくれているのです。それだけに、平成24年度政府予算原案において、外務省のODA予算が、10年以上続いた減少傾向から反転の端緒につき、0.3%の対前年度比増となったこと、また、南スーダンにおけるPKO活動に自衛隊施設部隊が派遣されることは、震災後の日本は、決して「内向き」姿勢ではなく、国際社会の責任ある一員として責任を果たすというメッセージの表明になったと確信しております。
(4) 東日本大震災の教訓ということで、世界が最も注目してきたことは、原子力発電所事故の教訓として我々は、何を学んだか、ということです。NYタイムズ紙が報じた日本人自身による議論・反省の中で最も根源的な教訓を一つ挙げるとすれば、それは次のようなものです。
『日本における安全性確保のルールは、「決定論的」(deterministic)なものとなっている。その本質は、「決定論」の下で想定された「危険」を越える「危険」,即ち現状の津波防禦壁を越える津波の発生は、もはや「想定外」として、危険管理の範疇の外に置き去りにされてしまっていたということ』。それ故に、今後使用すべきは、「確率論的」(probabilistic)な危険管理手法ではないか、ということになります。2000年以上わたり頻繁に天変地異を生き抜き 、順応してきたはずの日本人でありながら、何故、「想定外」という思考停止に陥ってしまったのか、日本再生の大きな鍵がここにあるような気がします。
2. 国連の場から見た世界情勢
(1) 2011年という年は、日本のみならず世界にとっても格別の意味をもつ年となったと思います。恐らく、この20年間というタイム・スパンで見れば、冷戦の終了という世界史的意義ある1989年に劣らない意義ある一年であったのではないか。中東・北アフリカ地域に生起した「アラフの゙春」という民主主義革命は、チュニジア、リビア、エジプトにおける専制・独裁体制の終焉をもたらし、イエメンにおけるサレハ大統領の退場も不可避となっており、シリアにおいては、アサド大統領による専制が崩壊の瀬戸際まで追い詰められています。
更に、ミヤンマーにおいては、民主化プロセスが大方の予想を上回るほどのペースで着実に前進しております。なお、北朝鮮においては、金正日国防委員長の死去により、金正恩体制に移行しつ� �ありますが、同時に、我々は、この機を少なくとも「チャンスの窓」として活かす外交を展開すべきは当然です。
(2) こうした動きをどう理解すべきでしょうか。
第一に指摘すべきは、今年一年間世界が目撃したことは、地球上における民主主義空間が着実に拡大したということです。それは未だ全地球を覆うまでには至っていないが、アレクシス・トックビルが喝破した世界政治における「民主化」、「平等化」の契機は、強まりこそすれ弱まることはないということを示しているように思います。
(3) 第二に指摘できることは、これら民主主義革命は、本質は「内発的な」(home-grown)革命であったということです。何よりも、若者が、インターネットという情報通信革命の道具を最大限に活用しつつ、勇気を奮って立ち上がったという強い印象を持ちます。自らの国民に人間としての生きる上で必要な自尊心、尊厳を保障できない専制政治は退場を迫られるということを実証しました。かつて英国は、植民地統治に際し、二つの鉄則を自らに課し実践したといわれております。
一つは、「法治主義」(民主主義ではない)を徹底すること。それは香港統治の成功の公然の秘密でもあります。二つは、「殉職者」を出さないこと。もうお分かりでしょう。チュニジア革命は、「大学を卒業した青年が自らの将来に絶望し、自らの尊厳� �自死(殉死)で贖った」ことにより突き動かされました。
どのようにkyrghyzstanを木っ端ん
(4) 第三に、「アラブの春」革命は、「イスラム主義者」主導の革命ではなく、「世俗主義」を基調にした「民主主義」革命であったということです。但し、来年以降、それぞれに合った民主主義の確立が追求される中、イスラム主義者がどこまでその主張を国政レベルで獲得するか(セキュラリズムとイスラム主義のせめぎ合い)は、全ては、各国がそれぞれに結論を見いだしていくべき課題であり、紆余曲折、時間がかかることは覚悟せねばならないでしょう。
(5) 第四に、チュニジア、エジプト、リビア、イエメン、シリアにおいて生起しつつある政治革命への国連安保理の関与についてです。関与の度合いは、個別事案ごとに様々でしたが、基本的には、「国民の民意を反映した政治体制」への動きを一貫して支持し続けたという意味で、国連は、恐らく歴史の審判を受ける際には、正しいとされる側に立ち続けてきたと思います。
これまでであれば、ロシアや中国が「内政不干渉」を理由に拒否権を行使することで国連安保理として一切行動を起こせない場合が多かったはずですが、今回は違いました。その最大の理由は、王政下の限定的な民主主義国家である湾岸諸国を含め全アラブ連盟加盟国(21ヶ国と1機構)の総意として、民意を反映した政治体制への変更を一貫して支持す る動きがあったことが決定的に重要です。
それ故に、リビアに対する国連による武力介入を容認した安保理リビア制裁決議1973は、ロシア、中国としても「棄権という形で容認」せざるを得なかったのです。両決議は、「紛争下における文民保護」という大義の下に、紛争下にあって、当該国政府が自国民保護の責任を果たせない場合に、国連が武力介入することを容認した国連史上最初の事案となりました。
その後ロシアと中国は、シリアに対する制裁決議案については、頑なに反対を貫いています。シリアについては、安保理は機能不全に陥っていますが、国連総会は、安保理が採択しえなかった内容を含むシリア非難決議を採択しました。このことは、「アラブの春」が象徴したような「独裁・専制国家」における民� ��主義への要求を当該国の現体制が武力を行使することで抑圧しようとする場合には、国連として声を挙げないではおれなくなっている、方向としては国際社会の人道介入を阻止し得なくなりつつあると言って過言ではありません。
(6) 第五に、中東・北アフリカ民主主義革命は、イスラエルの存在、或いは、「中東和平」の進展が進んでいないことをスケープ・ゴートにすることなく達成されたことも重要です。同時に、中東世界に議会制民主主義国が複数誕生したことは、「中東和平」進展に向けた圧力はより強まることをイスラエルは覚悟する必要があります。
(7) 第六に、「アラブの春」は、国連における日本外交を強力に後押ししてくれました。拉致問題解決他、北朝鮮による人権侵害状況の改善・是正を求める「北朝鮮人権状況決議案」を日本政府はEUと共同で2005年以来毎年提出し、国連総会における賛成多数で採択を勝ち取ってきております。先月19日の国連総会において、これまでで最多の123ヶ国の賛成票(昨年比17票増加)を得て採択されました。
リビア、チュニシア両国に支持を働きかけた際、「新生リビア」、「新生チュニジア」が拉致問題解決を求める国連決議に賛成するのは当然の責務であるという回答を得たときは、「アラブの春」が日本外交への追い風になったことを実感できました。今年こそは、拉致問題解決を含め、日朝関係の歴史的打開を期待したいと思 います。
3. 大変長文の2011年年末所感となってしまいました。
かつてポーロは、「災厄は、経験を、経験は、勇気を、勇気は希望をもたらす」と述べました。2012年という年が、大震災の被災者の方々を始めとして、全ての日本人に勇気と希望を感じることのできる一年になることを願います。皆様方におかれては、2012年が、何よりも健康で、充実した一年となりますよう祈念申しあげます。
(本稿は筆者の個人的見解です。) (2012年1月19日寄稿)
タイ大洪水後の日タイ関係
―共に目指す自然災害に強い国造り―2011.12.29
『タイ大洪水後の日タイ関係
―共に目指す自然災害に強い国造り―』
駐タイ大使 小島誠二
南下する巨大な水の塊との戦い
今年、タイ中部を襲った洪水は、約680人の死者と440万人の被災者をもたらし、世銀、国連、JICA等の合同調査によれば、被害はタイ中部を中心に26都県(タイ全土77都県)に及び、被害額と損失額をあわせると1兆4300億バーツ(タイのGDPの約14%に相当)に上る。
タイは、これまでたびたび洪水に見舞われてきた。昨年も南部では洪水が発生している。バンコクに被害をもたらした洪水は、1942年のものがよく知られているが、近年では1978年、1983年及び1995年にも洪水がバンコクを襲っている。
内陸部の奥深くまでほとんど勾配がない平坦な大地が広がるタイの洪水は、よく盆の上の水にたとえられる。今回も、水の進行は、1日数キロ、最終段階では1日、1キロにさえ達しない程度 であった。また、一旦水が浸入するとなかなか引かず、被害を大きくする傾向もある。政府の対策は、このようにゆっくりと進行する水の塊を運河、水路、河川等を使って海に流すことであった。特に、今回バンコク都近隣県が浸水した後、洪水との戦いは、さらに南下する水の塊を東西に振り分け、バンコク都に浸入させないことに移った。
今回の洪水がこれだけ規模が大きくなり、大きな被害をもたらした理由としては、今年は例年に比し1.4倍の雨量があったこと、上流ダムからの放水が遅れたこと、遊水地が減少したこと、運河、堤防、水門等の維持管理が不十分であったこと、都市化・工業化が進展したこと、森林被覆率が低下したこと、温暖化の進行により、局地的な豪雨がより頻繁に見られるようになったこと、洪水対策 のための体制・調整が十分でなかったこと等が指摘されている。今後の検証が待たれる。
バンコク大学での炊き出し
ラカバンの洪水避難所訪問
ゆっくり進行する水は危険か?
今回の洪水がバンコク都及び近隣県を襲う可能性が高くなったことを受け、10月7日、大使館では緊急対策本部を立ち上げ、その後休日を含め、毎日、洪水の現状を分析し、今後の動きを予想し、在留邦人保護のあり方、日系企業支援の方策、さらにはタイのニーズに応じた援助内容を検討した。そのため、公開情報の分析及び洪水の専門家との意見交換に加え、大使館員が毎日バンコク都及び近隣の同一地点に赴き、溢水の有無・状況を確認することにした。結局、緊急対策本部は11月21日まで、38回の会合をもつことになった。
緊急対策本部での検討結果、バンコク都が発出する危険情報等をふまえ、メールによる大使館のお知ら� �の送付、スポット情報と渡航情報の発出、海外邦人安全対策連絡協議会の開催、邦人の状況確認、避難支援等を行った。また、今回は大使館ツイッターとウェブ・アルバム(地図上に洪水写真を表示)も活用した。
今回緊急対策本部を悩ませた最大の問題は、洪水の危険をどう評価するかであった。今回の洪水は、津波や鉄砲水と異なり、直ちに生命に危険を及ぼすものではなく、冠水した地域で普段とあまり変わらない生活を送っている方もおられる。他方、水道水の汚染、断水、停電、さらには感染症蔓延のおそれも排除できず、在留邦人にとっては、生活に困難を来すおそれがあった。結局、在留邦人の皆様には、バンコク中心部で溢水のおそれが高まった極めて短期間のみ(10月26日から11月16日まで)、国外を含め安全な場所 の確保・移動の検討をお願いすることとなった。
タイ政府・国民も日系企業の被災に同情
今回の洪水に対して、日本で急速に関心が高まったのは、10月に入り、アユタヤ県及びパトゥムターニー県にある7か所の工業団地や個別の工場が次々と水没していったことによる。日系自動車メーカーの完成車が水の中に取り残された光景は、その後毎日のようにタイ及び日本の新聞の紙面に掲載されることになる。結局、7か所の工業団地では、約800社が被災し、そのうち450社が日系であった。
工業団地の被災に大きく焦点を当てる日本での報道のあり方に対して、特に日本の報道関係者の中からタイの被災民にもっと目を向けるべきではないかという声が上がった。日本政府としても、迅速な復旧と被災者支援のため 、後述の通り、様々な緊急援助を行ってきている。また、地方自治体、タイ在住邦人の間にも、支援の輪が広がっている。ただ、日系企業の被災に対しては、タイ国内に強い同情があり、また、日本企業はタイから投資を引き上げるのではないかという強い懸念が生じたのも事実である。私も、インラック首相や関係副首相等との意見交換を通じて、このことを強く感じている。
日本政府としては、工業団地の被害の最小限化、生産活動の早期再開に向けた支援、特に中小企業に対する救済措置、抜本的な洪水対策等を申し入れてきている。他方、浸水で操業できなくなっている日系企業のタイ人労働者を半年間日本に受け入れることにし、すでに約3000件の査証を発給している。
時間との戦い(救済から復興へ)
< p>緊急援助では、日本の存在は圧倒的であり、タイ政府も受入れに前向きで、インラック首相及びヨンユット副首相兼内相を始め、閣僚の皆様に供与式典等に出席する労をとっていただいた。タイのマスコミも積極的にこれを報道してくれた。日本は、これまで、ポンプ、船外機、仮設トイレ等の緊急援助物資の供与、治水分野を始め各種インフラ分野、遺産修復分野等の専門家を含む様々な調査団の派遣、NGOを通じた緊急支援物資の提供、航空機搭載型レーダーを用いた観測データの提供といった幅広い支援を行ってきた。10億円を上限とする緊急無償資金協力も実施している。ユネスコと共同でアユタヤ遺跡保存のための協力も始める。インラック首相によるバンケン浄水場視察
国際緊急援助隊専門家チームの排水ポンプ車
特筆されるのは、初めて10台の排水ポンプ車と専門家とからなる国際緊急援助隊が派遣されたことである。11月下旬から約1ヶ月にわたり、工業団地、住宅地、アジア工科大学院(AIT)等で排水活動を行っており、その高い性能と機動性がタイ国民に強い印象を残している。
排水前のアジア工科大学院(AIT)
タイ政府には、海外の投資家の信頼を取り戻すためにも、短期と長期の水管理計画を作成することが求められている。実際、タイ政府は、インラック首相を委員長とする水資源管理戦略委員会とウィーラポン元副首相を委員長とする洪水復興・未来建設戦略委員会を立ち上げて、早期に結論を得るべく努力している。次の雨期は、来年5月に迫っている。
JICAは1999年にチャオ・プラヤ川流域洪水対策マスタープランを作成しており、JICAに対するタイ政府の信頼は絶大であり、このマスタープランの見直しを含め、日本としては大きな貢献ができる。洪水対策へのJICAの関与は、タイで生産活動を続ける日系企業の信頼を得ることにも繋がる。さらに、長期計画の下、洪水に強いインフラの建設・改修が行われる際、円 借款等の財政的な支援も検討できよう。このような支援を通じて、日本の高い防災技術を提供することができる。
共に目指す自然災害に強い国造り
今回の洪水は、日本とタイが投資・貿易を通じて、いかに緊密に結びついているかを改めて示すものであった。タイは、日本、さらには世界の製造業のサプライ・チェーンの中核に組み込まれているし、タイの製造業は日本の存在なしには、発展することができないと言っても過言ではない。
経済面のみならず、日タイ間の精神面の絆も極めて強い。東日本大震災後、当地日本人社会は、タイへの感謝を表し、力強い日本の復興を見てもらうため、「ありがとうタイ・がんばろう日本」キャンペーンを続けてきた。今回の洪水被害を受け、今後は「ありがとう、が� �ばろう。日本・タイ」キャンペーンとして、継続していくことにしている。
日本とタイは、不幸なことに今年、歴史的にも例を見ない規模の自然災害に見舞われた。日タイは協力して、自然災害に強い国造りを進めていくことが期待される。そして、この協力の経験をASEAN関連会議、国連等の場で共有していくことができる。タイが洪水問題を克服できれば、国際社会、特にメコン流域諸国にとってモデルになるであろう。
本稿は筆者の個人的な見解です。 (2011年12月15日寄稿)
『メコン河第3国際架橋とジャパン・フェスティバル』2011.12.19
『メコン河第3国際架橋と
ジャパン・フェスティバル』
駐ラオス大使 横田 順子
2011年11月11日11時11分、メコン河にかかる第3の国際架橋の開通式がラオスの中部タケークとタイの東北部ナコンパノムの間で行われました。第1番目の国際架橋(タドゥア・ノンカイ間)は1994年にオーストラリアの援助で、2番目(サバナケート・ムクダハン間)は2006年に日本の援助で、そして今回はタイの援助で建設されました。2012年12月には中国とタイの援助で第4の橋(フアイサーイ・チェンコーン間)が南北経済回廊上に架けられる見込みです。また、中国雲南から遠くシンガポールまで続く高速鉄道プロジェクトが動き出せば、その鉄道のためにもう一つの橋がラオスの首都ビエンチャンとタイのノンカイ県の間に架けられることになるでしょう。
メコン河第3国際架橋
(写真提供 Sisay Vilaysack氏)
開通式の式典日に先立つこと数日間、私はやきもきしていました。もしこの式典に招待されれば、片道4時間をかけても出席すべきと考えていたからです。他方、その日の夕方6時までにはビエンチャン市内に戻り、国立文化ホールで11日~12日の2日間開催の「ジャパン・フェスティバル~ありがとうラオス、ともに歩む未来~」のオープニングに駆けつけ、トンルン副首相兼外相を始めとする多くのラオスの要人を迎えて、スピーチをしなくてはなりません。
ジャパン・フェスティバル
東日本大震災復興写真展
11時11分の開通式が終わるのは何時なのか、ビエンチャンに戻るのにラオス側とタイ側のどちらのルートがより短時間で走行できるのか、どんなに遅くとも夕方6時までにはフェスティバル会場にいなくては、着替える時間はあるのかなど詰めなくてはならないことだらけです。しかし肝心の招待状がまだ来ません。
在ラオスのタイ大使からは招待状は出るはずと言われているものの、招待者がタイ大使なのか、タイの交通大臣なのか、あるいはラオス政府なのかもはっきりせず誰に聞いても明快な答えがないまま前日になりました。突然タイ大使から携帯電話に連絡が来ました。彼はすでに開通式の現地に向かっている途中の由で、ラオス外務省には他の外交団はともかく日本の大使だけは呼んでほしいと要請した旨を電話の向こう� �説明していました。それを聞いて、外交団は今回の式典に招待しないことになったことが判りました。他の外交団が呼ばれない中、日本だけが出れば、ラオス側もどう扱うか苦慮するだろうことは容易に想像できます。即座に私はタイの大使に特段の配慮に感謝しつつも、迷惑をかけるつもりはないので、心配しないでほしい旨伝えました。
なぜ私が出席すべきと考えていたか。それは、タイ王国を代表して出席されるシリントーン王女殿下にお出迎えの礼を取らねば申し訳ないと思っていたからでした。28年前、最初に同殿下にお目に掛かって以来、常に何かとお心配りをいただき、タイ北部のチェンマイの総領事時代には2度も公邸に足を運んでくださるなど過分のご配慮をいただきました。その王女様がラオスに来られるのにお 出迎えの列に加わらないわけにはいかないという心情だったのです。しかし、招待状がないのに勝手に行くわけにはいきません。
11日、シリントーン王女殿下とブンニャンラオス国家副主席による開通式をテレビの生中継で見つつ、ビエンチャンで初めて開催されるジャパン・フェスティバルの最後の準備にとりかかりました。東日本大震災の被災者にと全国で募金活動を展開し、100万ドル以上の義捐金を寄せてくれたラオスの政府と人々に対し、現地の日本人コミュニティーが一体となってお礼の気持ちと元気な日本人の姿を伝えるためのフェスティバルです。東北の日本酒や北海道のワイン、スナック菓子、香川の讃岐うどん、丸亀うちわ、大正琴演奏の他、カンボジアからは芽魂太鼓グループ、バンコクからはパントマイム役者� ��駆けつけてくれています。被災地の復興を示す写真展、ビデオ上映、最後はラオスと日本の盆踊りで盛り上げます。5月に発案して以来、毎月実行委員会を開催して準備が進められました。経費の負担や人手不足などいろいろな課題が出てきましたが、みんなの知恵と意欲と献身で当日を迎えました。大きな櫓も据えられ、提灯に灯がともり、太鼓が鳴って浴衣を着たラオス美人となでしこ美人達がドラえもん音頭を一緒に踊る姿はとても素晴らしいものでした。
関係者の皆さん、本当にお疲れさまでした。
(2011年12月9日寄稿)
※本文に記載している内容は個人的見解に基づくものです。
『ノーベル平和賞を受賞した西アフリカの女性リベリア大統領、再選との今後の課題』2011.12.12
『ノーベル平和賞を受賞した西アフリカの女性
リベリア大統領、再選との今後の課題』
ナイロビは何を意味する?
駐ガーナ大使 二階 尚人
今年のノーベル平和賞を3人の女性が受賞することとなりました。そのうち2名が西アフリカのリベリアのエレン・ジョンソン・サーリーフ大統領と女性平和運動活動家のリーマ・ボウイーさんであります。リベリアは14年にわたる内戦が2003年に終結し、ようやく平和が訪れた国です。内戦を通じ、人口約400万人のうち23万人あまりの国民が亡くなり、大量の難民が生じ、経済社会が疲弊し、一人当たり国民所得も200ドル以下に減りました。内戦が終了後2005年に大統領選挙が実施され、アフリカ最初の女性民選大統領としてジョンソン・サーリーフ大統領が選出されました。
首都モンロビアの風景
同大統領のもとでリベリアは国際社会の強力な支援を受けて平和構築、民主化、国家再建の道に努力してきました。私兵化していた軍、警察その他の組織が解散され、治安維持の任を担う当初15,000人規模の国連のリベリア・ミッション(UNMIL)の支援を受けて基本的人権、民主主義にのっとった新たな軍、警察の組織化、治安改革が行われました。経済社会の復興も国際社会の協力を得て、インフラ、学校、病院等の建て直し、資源分野等の産業の復興、開発が進められました。わが国も同国に対して、内戦中の人道支援、緊急支援、そしてその後、保健、インフラを中心に国家再建への支援を行ってきました。
選挙期間中警戒中のUNMIIL部隊隊員
(写真UNMILより)
その中で今年10月に大統領選挙、上下両院議会選挙が行われました。大統領の任期は6年で、国民の直接選挙制です。再選を図るジョンソン・サーリーフ大統領を含め16の候補者が選挙戦に臨みました。前回2005年の選挙は国連のリベリア・ミッションが中心となって準備したものでしたが、今回の選挙はリベリア人が内戦後自ら実施する初の選挙でした。現在8000人規模の国連リベリア・ミッションも黒子に徹しました。そして国際社会は選挙が民主的、平和裏に行われ、またその結果が同様に受け入れられるかを注目しました。選挙運動は与党の「統一党」(UP)、第一野党の「民主変革会議」(CDC)をはじめ活発に行われ、大きな混乱もみられませんでした。選挙はリベリア選挙管理委員会が準備を進めましたが、リベリアの将来� �とっての今回の選挙の重要性にかんがみ国際社会も積極的に協力を行いました。わが国も投票箱供与をはじめ民主的な選挙が実施されるよう国連を通じ500万ドルの協力を行っております。
8日の選挙当日首都モンロビアは、雨季のためもあり、雨の中でしたが、多くの人々が各投票所に向き、なかには4時間も並んで投票を行った人もあったそうです。リベリア全国で多くの有権者が平和裏に投票を行いました。多くの国、国連、アフリカ連合(AU)、西アフリカ経済共同体(ECOWAS)など国際機関、NGOの人が選挙が民主的に行われるかを見守りました。リベリアを兼轄している在ガーナの日本大使館館員も出張し、監視団に加わり、4WDで投票所を回りました。選挙および選挙開票はいずれも基本的に平和裏、民主的に行われました� ��その結果、ジョンソン・サーリーフが44%、次にCDCのタブマン候補が33%等それぞれ票を獲得しました。
いずれの候補者も半数以上の票を確保できなかったため、リベリアの憲法に従い、11月8日に上位2者間で決選投票が実施することが決定されました。しかしその後CDCのタブマン候補が選挙開票過程での不正を訴え、決選投票に参加しないことを表明し、急遽雲行きが怪しくなってきたのです。これに対し、アフリカ諸国などより、第一回選挙は基本的に公正に行われたとの認識からタブマン候補に態度を翻意するよう働きかけがなされましたが、タブマン候補は決戦投票をボイコットするよう支持者に呼びかけを続けました。その過程で与党、野党CDC支持者との間で緊張が高まり、野党支持の放送局のいくつかが警察、� ��法当局により閉鎖され、また決選投票前日には野党支持者のデモと警察との間で衝突がおき、警察側が発砲し死傷者がでるという事態に至りました。
与党の選挙運動の看板
選挙期間中の集会の模様)(写真UNMILより
幸い決戦投票当日は平穏かつ民主的に投票が実施されました。タブマン候補がボイコットを呼びかけたため、投票率は38.6%と比較的低調なものとなりましたが、投票の結果ジョンソン・サーリーフ大統領の再選が決定されました。
明年1月中旬大統領就任式が行われます。ジョンソン・サーリーフ大統領が引き続き民主主義に則りリベリアの復興、開発過程を前進させることが期待されます。同時に彼女は大きなチャレンジに応えていく必要があります。それは今回の選挙の過程で改めて明らかになった国民相互間に存在する強い不信感、そしてその背景にある内戦の傷の深さにこれまで以上に対応していく必要性です。大統領にとりリベリア国民間の和解を進め、国民の統一を図っていくことが今後一層重要な課題となるでしょう。またそれを進める上でもリベリアの経済社会の復興、貧困削減、発展を確保していくことが必要です。
決戦投票をボイコットしたCDCを多くの若年層が支持しているといわれています。これまでの復興過程は、資源分野などでの投 資の増大がみられたものの、若年層に対する具体的な仕事の機会につながるものではなかったといわれています。このためジョンソン・サーリーフ大統領としては今後これまで以上に雇用機会増大に向けて努力していくことになると思います。国連開発計画の2011年版「人間開発報告」によれば、リベリアの人間開発指数は世界187カ国中182位に留まっています。このような中で、わが国を含め国際社会はこのようなリベリアの努力を今後とも支援していく必要があると思われます。11月わが国の同国に対する食糧援助交換公文署名のためモンロビアを訪問し、お目にかかった際も、ジョンソン・サーリーフ大統領は、リベリアの国づくり、和解、対話の進展に向けた力強い決意を表明するとともに、わが国の協力に対する強い期待を述� �ていました。
なお、本稿は筆者の個人的見解であることを付け加えます。
(2011年12月5日寄稿)
『「アフリカの角」の大干ばつとケニアのソマリア進攻』2011.12.3
『「アフリカの角」の大干ばつとケニアのソマリア進攻』
駐ケニア大使 高田 稔久
去る10月16日、ケニアは、テロリスト勢力たるアル・シャバーブ(AS)により国の安全、経済が脅かされているため断固たる措置を取らざるを得ないとして、ソマリア領内に進攻した。戦闘のために国外に軍を派遣するのは、ケニアとして独立後初めてのことである。それから一ヶ月余りが経過し、戦況はやや膠着状態にあるが、ケニア政府としては、ASの拠点たるキスマヨ攻略を目的に、そこに至るASの支配地域を徐々に解放しようと作戦を継続している。(ケニアの作戦と直接の関連はないが、現在首都モガディシュは98%が暫定連邦政府(TFG)軍とアフリカ連合平和維持軍(AMISOMA)の支配下にあるとされている。)
今のところケニア国内では政府の行動を支持する声が大勢である。TFGを始め近隣諸国も、ケニアの懸命な外交努� �もあり、支持を明確にしている。ソマリアの人々の支持も獲得しているようである。欧米諸国は、人道支援活動への悪影響、報復テロの可能性、出口戦略が明らかでなく泥沼化するのではないか等の懸念を持ちつつも、暗黙の支持が大勢のように思われる。
ケニアは何故この時点でソマリア進攻に踏み切ったのであろうか。相当長い期間の準備があったのか、それとも、最近数ヶ月の事件等に短気を起こして行動したのか、良くは分からないが、答えはやはり前者の方により多くの真実があると考える。
ソマリアが不安定であることによりケニアが受けている不利益、あるいは脅威を長期(20年)、中期(過去3年ほど)、短期(過去数ヶ月)で説明したい。これは、基本的要因、脅威の顕著な増大、そして(軍事行動の)きっかけとほぼ一致すると思われる。
ソマリアと約600キロに及ぶ長い国境線を共有し(AS支配地域との国境線はエチオピアとソマリア間のそれより長いと思われる)、また国内に多数のソマリア系住民を抱えるケニアは、20年にわたりソマリアに安定政府が存在しないという事態により、直接・間接に大きな脅威を受け、また経済的に多大な損失を受けていると感じてきた。小型武器や麻薬の流入が一般治安、ひいてはケニアへの直接投資や最大の外貨収入源の一つたる観光に与える悪影響、難民受け入れの様� ��な負担、国境地帯での犯罪やテロリストの浸透の可能性という社会不安などである。
近年はこれらに加え更に海賊の脅威が加わった。海賊の根拠地はASの支配する中南部よりはプントランドが多いとされるが、ソマリア全体の不安定が根底にあることは否定できない。さらに、海賊対処活動の影響により、海賊の活動地域は拡散しており、モンバサ港という東アフリカ最大・最良のハブ港を有するケニア、そしてタンザニア、セーシェル等は物理的脅威に加え、運賃、保険料の高騰に苦しんでいる。
そこへ大干ばつである。やはり気候変動の影響か、アフリカの角における干ばつは昔は7、8年から10年に一度程度であったのが、90年代以降5年に一度、そして2,3年に一度と今や常態化しつつある。前の干ばつの傷が癒えぬうち� ��次の干ばつに襲われるという状況になっている。昨年末から心配されていた今回の大干ばつ(過去60年間で最悪とされる)では、ケニア自身大変な苦境に陥ったが、これに加え、ソマリアから新たに14万人を超える難民が流入した。難民キャンプのあるダダーブは周辺住民10万人に満たない所で、ここに以前からの難民30数万人とあわせ合計46万人を越えるソマリア難民が滞在している。周辺住民とあわせ合計50数万人が住むケニア第4位の規模の人間居住区である。その中にはテロリストも混じっているだろうし、食料は国際人道支援機関等が供給したとしても、では煮炊きの燃料、水はどうするのか、ケニアにとって大変な環境負荷である。(たとえが適当でなく恐縮だが、仮に我が国の周辺で何か異変が起き、我が国に150万人の難民が� �入する事態をご想像いただきたい。ケニアの人口は4100万人なので、50万人の難民は人口比にすれば日本にとっての150万人ということになる。)
干ばつの発生を受けて、ケニアのダダーブ難民キャンプにはソマリア難民が 加速的に流入、正式登録を待つ難民がキャンプ周辺で生活を始めている。 干ばつの発生を受けて、ケニアのダダーブ難民キャンプにはソマリア難民が 加速的に流入、正式登録を待つ難民がキャンプ周辺で生活を始めている。
銃弾跡の残る壁の前に座る女性と子どもたち
(モガディシュ)(写真提供:UNICEF/NYHQ2011-1195/Kate Holt )
もちろん干ばつそのものはASの責任ではない。しかし、ソマリア(中南部)に安定政府がないため、国としての干ばつへの備えは全く出来ていない。また更に悪いことに、ASは自己の支配地域での国際人道支援機関の活動を認めようとしなかった。(AS内部で意見が割れていたようであるが、いずれにしてもほとんどのAS支配地域で安全は保証されず、人道機関はアクセスできなかった。)そのため、ソマリア中南部の多くの地域が飢饉(国連の定義によれば、子どもの急性栄養失調が30%を超え、1日1万人あたり2人以上が死亡し、多くの人々が食料等の基本的必需品の不足に陥っている状態)と宣言され、多くのソマリア難民が水と食料、そして安全を求めてケニアに流入したのである。ケニア政府にしてみれば、ソマリア� �部の状況を何とかすべく、今こそ断固たる措置を取らなければならないとの思いを強くしたであろうことは想像に難くない。(9月8日、9日にナイロビで開催されたアフリカの角の干ばつに関する地域首脳会議においてもソマリアの治安情勢が一つの焦点であった。)
また、ASが台頭した過去3年ほどASの分子と見られるグループにより国境付近を中心にケニア領内での攻撃事件が跡を絶たず、多くのケニア人が犠牲となっていた。そしてここ数ヶ月そのようなテロ行為や誘拐事件がエスカレートする兆しを見せ、外国人も被害に遭うようになった。(そのような行為のすべてがASによるものなのか単なる犯罪者グループの仕業かはわからないが。)また、折しもAMI SOMの活動もあり、ASがモガディシュから撤退し、干ばつの影響もあってASが住民の支持を失い弱体化しているとされる現在の機会をきっかけとして、ケニアの独立後初めての対外軍事行動に踏み切ったと考えられる。
ケニア リボイ国境付近からソマリアに向かう
ケニア軍(写真提供:Standard)
ケニアの目的は、冒頭でも触れたように、キスマヨを陥落させ、ASを駆逐してソマリア中南部に安定をもたらすことであろう。しかしそれは容易なことではない。ASはテロリスト、ゲリラ組織である。支配地域を失ったとしてもなお様々な形で抵抗を続けるであろう。TFGやAMISOMによる解放地域の維持も容易なことではない。また、ソマリアは過去20年間安定ということを知らない、人によっては、ソマリアにおいては現在の不安定な状況それ自体が強固な利権・ビジネス構造を形成しているとさえ言う(木炭輸出やその徴税、海賊マネーの分配、にわかには信じられないが世界一安いとされる携帯電話料金(1分1セント以下だそう)など)。何よりもソマリア人は「戦士」だとされる。侵略者と見なされれば一致� ��結した徹底的な抵抗を受ける。だが、ひとたび安定が見え始めると部族同士の勢力争いが復活する。このような中で、私として個人的には、ケニアが泥沼に引きずり込まれずにうまくやってくれることを祈る思いである。
国際社会はどうか。ソマリアの安定化に向けて、これまで国際社会としてもなかなか妙案がなかったというのが実情であろう。過去国連や米国による軍事的な介入(平和創造努力)は失敗し、とても再度それを試みる状況にはない。TFGの体制強化、治安能力強化を通じて何とか安定した政府に育って欲しいとの思いで支援を続けてきたが、将来に向け明確な展望を持つには至っていなかった。そこへケニアが動いた。政治・外交的な支援をどうするかという問題に止まらず、AMISOMに対する増員や費� ��・機材支援強化の具体的要請にどう答えるのかが今後の大きな課題であろう。 (2011年12月1日寄稿)
※本文に記載している内容は個人的見解に基づくものです。
『「アラブの春」の先駆者チュニジア、民主化へ着実な一歩を進める』2011.11.30
『「アラブの春」の先駆者チュニジア、
民主化へ着実な一歩を進める』
駐チュニジア大使 多賀敏行
1. はじめに
「今まで50年以上生きてきたが,生まれて初めて投票する。こんなにうれしいことはない」。これは,今年10月23日にチュニジアにおいて初めて実施された民主的選挙において,投票所となった小学校で,自分の投票の順番を待つチュニジア人女性が私に語った言葉である。チュニジアでは本年1月14日革命が起きた。23年間強権政治を行ってきた独裁者ベンアリの政権が崩壊したのである。
その後チュニジアでは,民主化移行のための取組を一歩一歩確実に進めてきたが、憲法を制定することになる憲法制定議会の議員217名を選出するための選挙(制憲国民議会選挙)を民主的かつ平穏裏に実施することが出来るか否かが大きな注目の的となっていた。ふたを開けてみると、選挙は大きな問題もなく無事執りおこなわれた。大変� ��いことであった。チュニジアは中東・北アフリカ地域における民主化を求める動きの先駆者であることから,同選挙が他のアラブ諸国に与える影響は極めて大きい。そのため、同選挙には国際的にも大きな関心が寄せられた。透明で自由な選挙の実施を確実にするため、チュニジア国内の民間団体をはじめ、多数の外国政府や国際機関,国際NGOが同選挙の監視活動に参加した。EUの監視団、アメリカのカーター財団の選挙監視団などがそうである。日本も浜田和幸外務大臣政務官を団長とする選挙監視団を結成し、投票所での監視活動を行った。私もその一員となって参加した。
2. 政変から制憲国民議会選挙までの民主化プロセス
2010年12月、高い失業率、沿岸部と内陸部の経済格差に対するチュニジア市民の不満が反政府デモとして発現した。チュニスの南約300kmの内陸にあるシディブジッド県で失業中で、野菜・果物の行商を行っていた26才のモハメッド・ブアジジ青年の焼身自殺に端を発したデモは,瞬く間に全国に広まった。独裁政権下で表現の自由を奪われ,大統領や政権に対する批判はタブーとされた社会において、市民がそれまでの沈黙を破り,社会公正や自由,尊厳を求めて立ち上がったのは驚くべきことである。ベンアリ大統領には首都チュニスをはじめ国内各地で広がる反政府の非暴力デモを弾圧によって抑えることはできず,かといって市民を満足させるような譲歩の道もすでに残されていなかった。ベンアリ大統領の1月14日の国外脱出により 、ベンアリ政権は崩壊した。
中東・アフリカ地域の専門家も現場で外交に携わる者も殆ど誰も予想することができなかったこの政変は、たちまちエジプトやリビア、バーレーン、イエメン、シリア等の政治的、社会的に似通った状況下に置かれた市民を勇気付け、いわゆる「アラブの春」と呼ばれる民主化の波をアラブ地域に引き起こした。
チュニジア革命はチュニジアを代表する花になぞらえて「ジャスミン革命」とも称されるが、チュニジア人自身はこの呼称を好んでいないようだ。ジャスミンの花からイメージされるような穏やかなものではなかったこともあろう。彼らは「自由と尊厳の革命」と呼んでいる。
政変後の民主化プロセスの中で最初の一番大きなステップとなったのは冒頭で触れた10月23日の制憲国民議会選挙であった。
3. 日本選挙監視団の活動
2011年10月23日は多くのチュニジア人にとって特別な日となったことは間違いない。チュニジア新憲法を制定する議会を選出するため、同日、チュニジア史上初の自由で民主的な選挙がチュニジア国内において無事実施されたからである。この選挙では認可された112の政党のうち約80が参加し、選挙方式は,選挙区ごとの議席数と同数の候補者が名を連ねたリストに投票する拘束式比例代表制で行われた。国内の27選挙区だけで 候補者総数は1万1000人以上になった。
同選挙に参加するため,朝早くから大勢の市民が投票所を訪れ、自分が投票する番を長蛇の列に並んで辛抱強く待ち続けた。
ブルギバ通りに面する 内務省 (ベンアリ時代の民衆弾圧の象徴的存在) 1月14日の昼頃、この前に一万人を超えるチュニジア市民が押しかけた。午後4時半ころ ベンアリは国外脱出した。
チュニス市随一の目抜き通り(例えて言えば、銀座通り)である、ブルギバ通りの東端に聳える時計台の広場 を背景にして 本使
我々日本監視団はチュニス市内及び近郊の8箇所の投票所を訪れたが、投票所で出会った市民の中には,投票するまでに2、3時間は普通、4時間以上待った人も稀ではなかったようである。もちろん、10月末でもまだまだ強いチュニジアの日差しの下で長期間待たされることに不満をもらす市民の姿もあった。しかし、全体としてどの投票所(小学校である)も,自分の声が新しい国づくりに反映されることに対する市民の喜びと熱気,高揚感であふれていたように感じる。まるでお祭りのような雰囲気でさえあった。翻って日本のことを考えた。市民の政治参加が当然のこととみなされていて、そのための準備やインフラが確実に整っている日本の状況がいかに恵まれているか、改めて実感した。
ブルギバ通りにある 「アル・キタベ書店」 1月14日の革命後、言論の自由が認められ、それまで発売禁止であったベンアリ政権批判の書籍が店頭に並ぶこととなった。 この書店を言論の自由回復を報ずるメデイアが好んで取材した。
ブルギバ通りの歩道にある喫茶店 パリのシャンゼリゼ と雰囲気が似ている。チュニジアは1881年から1956年までフランスの保護領であった。
4. 選挙結果と今後の見通し
制憲国民議会選挙では、選挙前の世論調査で最も有力視されていたイスラム主義政党「エンナハダ」が89議席(全217議席の約41%)を獲得して第一党となった。
選挙前の世論調査結果や有識者の見方では、エンナハダが第1党になることは想定内であったが、同党がもともと支持基盤を持つ貧困層の多い内陸部だけでなく、苦戦をするとみられていた海岸部や都市部においても多数の票を集め、ほとんど全ての選挙区で首位となったのは驚くべきことであった。
今回、エンナハダが市民から幅広い人気を集めたのは、信教の自由を含む個人の自由の尊重や女性の地位の向上を前面に掲げ、改革開放路線を取ったことが大きい。今後、エンナハダがイスラム主義の傾向を強め、例えばアルコール販売の規制や一夫多妻制の復活、女性のヒジャーブ着用の義務などを提案したとしても(同党はこれらを提案しないと宣言しているが)、ブルギバ政権及びベンアリ政権時代に多分に西欧化したチュニ ジア社会において,これらの提案は簡単には受け入れられないだろう。また、チュニジアでは1956年に公布された個人身分法により,他のアラブ諸国と比較して女性のための権利の保障が格段に進んでおり、女性の社会進出も顕著である(大学生の56%、医者の約半数が女性)が、これらの分野で後戻りをするような政策を有権者が支持するとは考えにくい。
5. おわりに
チュニジアは1月14日政変以降,着実に民主化の道のりを歩んできた。制憲国民議会選挙が成功裏に終わって、最初の大きな山場は越えた感があるが,これから1年以内に実施されることが期待されている新憲法制定や議会選挙、大統領選挙など,これから待ち受けている関門はまだまだ多い。最終的に安定した民主主義政府が樹立されるまでの道のりはまだ長いが、23年間続いた独裁政権を倒すほどの強い意志力を見せたチュニジア国民であれば、この目標を達成することも難しくないと今回の制憲国民議会選挙の成功を見た多くの人達は改めて思ったに違いない。私もその一人である。
※本文に記載している内容は個人的見解に基づくものです。 (2011年11月24日寄稿)
※本稿は、12月末発行の社団法人アフリカ協会機関誌『アフリカ』に掲載される同筆者のダイジェスト版です。チュニジア情勢のより深い分析は、同協会の機関誌『アフリカ』を併せてご覧下さい。
※お申し込みは、アフリカ協会HPまで:
革命の興奮と倦怠―エジプトの場合2011.11.21
『革命の興奮と倦怠―エジプトの場合』
駐エジプト大使 奥田紀宏
今年初めに18日間のタハリール広場の青年活動家を中心とした抗議運動によりムバラク大統領が退陣してから8ヶ月余りが過ぎたが、現状では、革命は依然として進行中である、と言わなければなるまい。今月末には4ヶ月間に及ぶ日程で国会選挙が開始される。エジプトの報道機関は、革命がもたらした数少ない具体的な成果である報道の自由に戸惑いながら、政党間の合従連衡の動き、現在のエジプト支配者である国軍最高会議と新旧雑多な政治グループとの間の今後の民主化スケジュールを巡る鍔迫り合い、全国各地におけるデモやストライキ、その他の次から次へと続く異議申し立て行動につき喧しく報じ、論ずる。
毎晩10時頃から放映されるテレビのトークショウでは、活動家や知識人が文字通り口から泡を飛ばしてあるべ� �政治の姿について討論している。10月9日には国営放送局前でキリスト教徒と国軍との衝突事件があった。選挙前の微妙な時期に25名を越えるキリスト教徒の死者と300名以上の負傷者の発生は政治的にも治安の面からも深刻な影響をもたらしうる。宗教間の対立抗争やキリスト教徒の増大する不満を抑えるために、国軍幹部は宗教関係者と頻りに会談し、その模様が写真付きで大きく新聞に報道される。一年前には国軍が国家統治の前面に出てきて国民との対話を行うなど、全くの「想定外」であった。確かに今年エジプトで大きな政治的社会的変化が生じ、それをもたらした革命は、今も進行中なのである。
しかし、どこに向かって「進行中」なのか。勿論、民主化という大きな目標はある。デモも各地で行われている。しかし、 最近のデモは以前のデモとは違ってきた。今年の初めからこの夏まで盛んに行われていたタハリール広場を中心とする政治デモは、「国民の自由、平等、尊厳」、「国軍と国民は一体」、「イスラム教徒とコプト教徒の連帯」、「エジプト第一」等の標語に現れているように政治的理想を訴えるものが主だった。ところが、最近では、賃上げ、雇用の要求、個別の組合や会社組織の幹部批判を目的にするものが多くなり、その規模も次第に小さくなっている。9日の国営放送局前衝突事件の直後に懸念した大規模な抗議行動は比較的短期間の内に収まってしまった感がある。
奇妙なことだが、このことに何かすっきりしない感情を覚える。第三国の大使館の立場からすれば、情勢が沈静化の方向に向かうことに文句はないはずだ。しか し、あの1月25日に青年活動家により華々しく開始された抗議運動が新たな秩序の形成に繋がらないまま、中途半端な混乱状況をもたらしているように感じられ、それに何故か満たされない気持ちが残るのだろう。
革命は何故一挙に力強く進まないのか。それは第一に、生活者としてのエジプト人が革命の基本的メッセージである民主主義や自由などの様々な価値よりも安全で安定した生活を求めている、ということではないか。9日の衝突事件における国軍の対応に問題があったとしても、これを追及することで治安維持の最後の砦である軍の権威を崩壊させたくない。元来、エジプト人は他のアラブ人とは異なり、定住民族で、性温厚にして、安定を好むと言われるし、筆者の聞いたところでも、多くのエジプト人自身がそう考� �ている。前政権がまさにこの点につけ込んで30年以上にわたる独裁と腐敗を意のままにしたのであれば、問われなければならないのは、エジプト人における「我が内なるムバラク」なのかもしれない。
第二に、現在のエジプトには国中を興奮させる国民的ヒーローもアンチヒーローもいないということを挙げなければならないだろう。
1952年7月26日革命は、自由将校団、ナセル大佐というリーダーがいて、これがまさに革命のヒーローとなった。他方、1月25日革命は個別のリーダーのいない所謂民衆革命と言われている。8ヶ月後の現在も、8000万のエジプト人の心を鷲掴みにする政治的指導者はまだ出現していない。病床のまま獄に繋がれているムバラク前大統領にはもはやアンチヒーローとしての価値はない。タンタウィ元帥は勿論アンチヒーローではないが、他方で、国民的リーダーという訳でもない。これはエジプトという気候風土から生ずるものなのか。或いは、個々人が瞬時に情報を共有することを可能にしたグローバライゼーションやIT革命が伝統的意味でのヒーローの誕生を困難にしたということであるならば、歴史的必然なのか。いずれにしても、革命の� ��想を掲げて国中を圧倒する強い個性は今のところ見あたらない。
この革命はまだ先が長いと覚悟しなければならない。現時点では興奮と倦怠の間にある1月25日革命の成功を、しかし、願わずにはいられない。
※本文に記載している内容は個人的見解に基づくものです。 (2011年11月16日寄稿)
西アフリカの援助の現場から 2011.11.17
『西アフリカの援助の現場から』
駐セネガル大使 深田 博史
その1. JICAの青年協力隊
先般、同じ西アフリカのニジェール、ブルキナ・ファソで活動していた海外青年協力隊員が、治安悪化の理由からセネガルに配置換えとなり、これで当地で活動する海外青年協力隊員の数は現時点で103名を数え、遂に世界で一番多く隊員が派遣されている国となりました。これはセネガルが日本の対アフリカ経済協力の最重点国のひとつであるという事情の他に、セネガルの国民が温厚・親日的で、また、国が安定していて、治安も良好であるといったことが背景にあると思いますが、セネガルの日本大使としては嬉しい限りです!
彼らとは、着任直後や離任の前に大使館に挨拶に来てもらったり、年に4回に分けてのダカールでの中間報告会の際、大使公邸に招いて夕食を振る舞うなど直接接する機会が何度となくありますが 、私が彼らから最も感銘を受けたのは、離任前に挨拶に来てくれた隊員諸君の目が皆生き生きと輝いていることでした!
ダカールのような大都市で活動する隊員もいますが、殆どの隊員は地方の都市や農村部で、生活面でも気候面でも非常に厳しい環境のもとで活動しています。それにも拘らず、彼らの目が生き生きとしているのは、厳しい環境も厭わない彼らの持ち前のバイタリティに加え、やはり2年間の活動をやり遂げた充実感がその目に表れているのだと思います。そして、皆着任時よりも一段とたくましく成長したように感じます。
彼らの活動をすべて紹介することは出来ませんが、少しだけ例を挙げると、サラリーマンを辞めて協力隊員に志願したある男性隊員は、野菜作りなどしたこともない僻地の村で、現地語� �覚えながら住民とコミュニケーションを図り、徐々に野菜作りに関心を持たせて覚えさせ、そしてそれが定着すると、今度は違う村に行って同じ事を繰り返す、という活動を2年間続けました。また、ある女性隊員は、ダカールで行われた青年協力隊員(セネガル)派遣30周年の記念式典で、現地語のひとつであるウォロフ語で原稿も見ないで堂々たるスピーチを行い、出席したセネガル人を驚かせました。 決して生半可ではなく、途上国のコミュニティーに溶け込み、一生懸命努力している彼らの姿がそこにあります!
正直なところ、私自身、外務本省で経済協力の仕事に携わっていた時は、海外青年協力隊の意義について「本当に途上国の役に立っているのだろうか」と懐疑的に見ているところがありました。しかし、今や� �分の不明を恥じています! 隊員の活動もさることながら、私が嬉しかったのは、日本の若者がますます内向き傾向を強めている昨今にあって、このような逞しくも魅力的な日本の青年達がいるということを直に確認することが出来たことでした。このような若者を育ててくれる、それだけでも、JICAの海外青年協力隊事業は存在意義がある今では本当にそう思います。
問題なのは、彼らの多くが帰国後、職探しに苦労していることです。職が見つからず、JICAや外務省、地方自治体の所謂「短期契約職員」として何とか「食いつないでいる」諸君もかなりいます。私は彼らこそ社会の様々な方面で活躍できる潜在能力を秘めていると思います。それにも拘らず、そんな彼らを積極的に評価して、採用しようとする企業があまりにも少な い!私は日本の企業こそ内向きなのではないか-そう思わずにはいられません・・・。
その2. マラリア予防として
こちらは雨季も終わりに近づき、海風も吹き寄せるようになって、これからは夕方、庭ですごすのが心地よい時期を迎えられると期待しています。
ただ、気をつけないといけないのは、雨季の間に水溜りで繁殖した蚊によってマラリアにかかる危険性が高まるのがこの9月から12月の間で、特に11月は一気に患者数が増えます。もっともダカール地域を例に取ると、これら患者の多くはダカール近郊の治水が行き届いていない、衛生環境が悪い(雨季に水が溜まり易い)地域に住む住民で、ダカール中心部でのマラリア罹患率はここ数年著しく改善されており、少なくとも過去3年の間に館員・家族でマラリアに罹った者はいません。しかし油断は禁物です。
実は、こちらに赴任する際、ベープマットや蚊を寄せ付けないスプレーなどを大量に持ってきたのですが、どういう訳かこちらの蚊には殆どきき目が無いことが判明し(!)、現在では専ら蚊用の殺虫スプレーを常に手元に置き、蚊と見れば、「プシューッ」と吹きかけています。これは効果てき面です。ただ、虫を見るとやたらとスプレーで殺したくなるのはちょっと危ない兆候かもしれません(笑)。
洪水対策を含めたダカール近郊の衛生環境の改善は喫緊の課題であると私も認識しており、日本の経済協力においてもこの分野での協力を強化していきたいと思っているところですが、その一環として、日本の無償資金協力による洪水対策用の機材(ポンプ、発動機、輸送用トラックなど)が8月に到着し、これらの機材は既にダ カール近郊で活用されており、大いに効果を上げています。
ダカール市内
また、同じ協力プロジェクトによる機材の第2弾が先般到着し、その引渡し式が大統領官邸で、ワッド大統領及び(たまたま閣議が官邸で開かれていたこともあり)全閣僚参加のもとで行われました。その際の大統領のスピーチの一端を紹介しておきます。
このような強力なポンプをかってセネガルは手に入れたことはない。
(大使が述べられた通り)日本からいただいたポンプは既に稼動しており、そのお陰で滞留していた水を排水することができた。
絶え間なくセネガルに対して寄せられる日本の支援に対し、自分の深い感謝の念を上手く表現する言葉が見つからないほど感謝している。
先般の災害によって日本は甚大な被害を受け、経済的にも大きな打撃を受けている。それにも拘わらず、こうしてセネガル及びセネガル人のことを考えていただいていることに対し、自分が感謝の極みにいることをすべての日本の人々にお伝えいただきたい。こうした(日本の)人々の意思、支えがなければ、このような支援は実現されなかったと思う。だからこそ、私の感謝の念を日本の政府を超えて、すべての日本国民にお伝えしたい。
一国の援助のために、大統領がその国の大使を脇においてこのようなスピーチをするというのは極めて異例のことであり、また、この引渡し式の様子は、当日夜の国営TVのニュース番組でトップ・ニュースとして7分間に渡り伝えられました。
このTV報道のお陰で、翌日は土曜の休みだったのですが、買い物に出かけた市場の店員、路上を歩く人々、ゴルフ場のキャディ、カフェのマスターなどあらゆる人々から握手を求められ、日本への感謝の言葉が伝えられました。
日本の援助について日本の新聞はあまり取り上げてくれませんが、当地で日本の援助がどれだけ国民の間に浸透し、どれだけ感謝されているか、その一端をお伝えできれば幸いです。
※本文に記載している内容は個人的見解に基づくものです。
(2011年11月11日寄稿)
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