ラテンCheel(チ−ル)史:菊地隆男:2009年03月
(Diamond On Line, March 19, 2009)
(写真:3月9日に行なわれた「外国人メーデー」の様子。職を失って先の見えない不安を抱える外国人労働者たちは雇用の保障を訴え続けている。)
約2万人のブラジル人が暮らす静岡県浜松市──。市の中心部にある「ハローワーク浜松」には、毎朝8時になると長蛇の列ができる。その多くが、この土地で仕事を失った日系ブラジル人だ。
行列は、昼過ぎになっても短くなることはない。日によっては、相談コーナーへたどり着くまでに5時間以上を要することも珍しくないという。
「疲れた。もう、ブラジルへ帰りたいよ。でも、帰国するにも航空券を買うカネがない・・・・・・」
座り込んで順番を待っていた日系2世のマスダ・カズオさん(42歳)は、そう言って顔をしかめた。
マスダさんは、ブラジル� ��ら出稼ぎに来て、まだ1年も経っていないという。スズキ(自動車メーカー)の関連会社で派遣社員として働いてきたが、昨今の大不況の煽りを受け、契約途中でありながら昨年末に"雇い止め"を言い渡された。
「寮も追い出された。今は友達の家を転々としている。貯金? 全然ないよ。日本へ来るのに航空券と手数料で50万円もかかったんだ。その借金を返済するだけで、精一杯だった」(マスダさん)
マスダさんは4時間も並んで、ようやく相談コーナーのイスに座ることができたものの、わずか10分でハローワークの外に出て来て、こうつぶやいた。
「ダメ。仕事ない。また明日、来てみる」
わずかな可能性に賭ける毎日──。しかし、こんな生活をいつまで続けることができるだろうか。マスダさんは、足を� ��きずるようにしてハローワークを後にした。
そんな外国人失業者の対応に忙殺されて、ハローワークの担当者も頭を抱えている。
「こんなことになるとは、予想したこともなかった。実際、求人が激減しているので、対応にも限界がある。ましてや日本語が不自由な外国人労働者の方にとっては、本当に厳しい状況だと思う」(担当者)
浜松市では7割近くが失業!苦境に喘ぐブラジル人の惨状
大手自動車メーカーをはじめ、数多くの有名企業が拠点を構える東海地方では、現在、未曾有の不況が"デカセギ外国人"を襲っている。その多くは製造業の現場で派遣・請負社員として働いて来た人々だ。
特に目立つのは、これまで"一大労働力"として日本企業の製造現場を支えて来たブラジル人が、大量に職� ��失っていることである。
グレートプレーンズが開発された方法
むろん、非正規社員が雇い止めや解雇の対象となることは日本人も変わらないが、日本語の不自由な外国人には、再就職のチャンスは少ない。雇用保険や生活保護といった各種セーフティネットの情報に接する機会にも乏しく、失職のダメージは深刻そのものだ。
同市でブラジル人支援団体「ブラジルふれあい会」を組織している座波カルロスさん(45歳)は、「市内のブラジル人労働者のうち、7割近くが今回の金融危機で仕事を失ったのではないか」と推測する。
「仕事だけでなく、派遣会社の寮を追い出されたりして、住居にさえ困っている人も多い。不動産業者は仕事のない外国人を敬遠するので、家を失ったブラジル人は、家族ぐるみで友� ��や親戚の家に間借りするしかない。現在、ワンルームにスシ詰め状態で暮らしているブラジル人は少なくありません」(座波さん)
そんな状況だから、今や市街地には、前述のマスダさんのように職を求めるブラジル人が溢れ返っている。彼らの生活ぶりを覗くと、その困窮ぶりは、想像以上に深刻である。
繁華街に近い雑居ビルの一室。テレビと冷蔵庫だけが置かれた殺風景な部屋に、3家族10人の日系ブラジル人が生活していた。仕事を失い、さらに寮を追い出されて、ほかに行き場を失った人々だ。同じ日系ブラジル人であるビルの所有者が、部屋を提供している。
カップラーメンをすすりながら、元派遣社員のオノハラ・ヘナートさん(43歳)が嘆く。
「7歳の息子も、ブラジル人学校へ通えなくなってしまった� ��仕事が見つからないので、毎月3万5000円の学費を支払うことができないのです。住まいと仕事を失ったことよりも、息子を学校に行かせてあげられないことが、何よりもつらい」
仕事を失ったブラジル人は、派遣・請負社員ばかりではない。雇用環境の悪化は、派遣会社の経営をも脅かした。
スズキ・クニアキさん(60歳)は、1月まで浜松市内のブラジル人専門派遣会社で、営業担当者として働いて来た。
「昨年秋から派遣会社の経営が悪化しました。"派遣切り"は"派遣会社切り"でもあるのです。仕事がなくなり、12月には給与が半減。そしてついに解雇されてしまいました」(スズキさん)
スズキさんは、これまで同胞であるブラジル人を、何百人も企業へ送り出してきた。好況時には労働者が足りなくなり、 サンパウロまで出張して、街頭で「日本で働きませんか」と書かれたチラシ配りまでしたという。
しかし、今や状況は一変。「今度は私が派遣社員として働いてもいい。とにかく仕事が欲しい」(スズキさん)という苦境に陥っている。
アメリカではコロンブス土地を行った場所
周囲の住民たちから反対の声も保見団地で身を潜める失業者たち
所変わって、愛知県豊田市郊外の保見団地──。約9000人の居住者のうち、半数近くが日系ブラジル人を中心とする外国人だ。
2月21日、団地内のスーパー前で、外国人を対象とした「一日派遣村」が開かれた。主催者である地元NPO組織の代表らは、「ブラジル人の窮状を広く伝え、支援の輪を広げるのが狙い」と説明する。
この日は多くのボランティアをはじめ、弁護士や医師なども駆けつけ、ブラジル人の生活・健康相談にあたった。さらに夕方からは炊き出しも始まり、ブラジル料理や豚汁などが振る舞われた。
トヨタ系企業で"派遣切り"にあった日� �2世のモリモト・カメマツさんは、つい最近、保見団地の住人となった。
「会社を解雇されると同時に寮も追い出され、知人のいる保見団地に家族6人で来ました」(モリモトさん)という。
今は居候の身。わずか2DKのスペースに、知人家族と合わせて10人もの大人数で暮らしている。
「正直に言えば、肩身が狭い。保見団地は空き家が350戸もあるというのだから、少しの間だけでも提供してもらえたら嬉しいのですが……」とモリモトさんはため息をつく。
日本人住民の間には、「これ以上、ブラジル人が増えてしまうのは困る」といった意見が少なくない。そのことが「空き家提供」への大きな壁となっている。生活、文化、習慣の違いが、日本人とブラジル人の間に、埋めがたい溝を作っているのだ。
ブラ� �ル人住民で組織される「保見が丘ブラジル人協会」のマツダ・セルジオさん(54歳)は、こう訴える。
「われわれ協会側の努力不足もある。日本人住民との交流を増やし、もっと溶け込んで行きたい。理解してもらえるようにも努めたい。しかし、製造現場を底辺で支え、ささやかではあるけれど、日本の経済発展にも貢献してきた日系ブラジル人が、"異物"のように見られてしまうことは悲しい。こうした深刻な雇用状況のときこそ、お互いに助け合って行きたいのですが……」
ハローワークも当てにならない!一日中歩き回って必死に職探し
派遣村にボランティアとして参加したイワモト・カルロスさん(51歳)は、トヨタ本社近くのアパートで一人暮らしをしている。困っている同胞を助けたいと会場に足を運� ��だが、実はイワモトさん自身も、いまは失職中の身だ。
「アパートの家賃は7000円。雇用保険も出ているので、まだ幸せなほうです」と、イワモトさんは健気に笑う。
ショック療法の金曜日
イワモトさんの「職探し」は、非常に個性的だ。ハローワークに出かけても「無駄なことはわかっている」ので、自力で探すのだ。手段は、「ただひたすら、町を歩き回ること」だという。
後日、そんなイワモトさんの「職探し」に同行してみた。
朝10時に自宅アパートを出たイワモトさんは、まず、道路工事の現場で足を止めた。そしておもむろに作業員へ話しかけるのだ。
「私はブラジル人です。仕事が欲しいです」
作業員は怪訝な表情を浮かべ、まるで厄介払いでもするかのように、手をひらひらさせた。
だが、それでめげるようなイワモトさんではない。一礼してその場を立ち去ると、次は大型駐車場の管理室に足を運び、同じように追い� ��われた。その後は、商店、スーパー、居酒屋など、片端から飛び込みで売り込んで行くのだ。
結局、その日も仕事を見つけることはできなかったが、イワモトさんは、このようなチャレンジ止めるつもりはないという。
「努力すれば、必ず報われると信じています。私の両親も、移民として苦労して来た。私は、まだまだ頑張らなくては行けません」
金融危機に端を発する雇用不況という"強敵"を相手に、イワモトさんは今日も孤独な闘いを強いられている。歩き続けた先に、果たして未来は見えて来るのだろうか?
不況の波は、岐阜県にも押し寄せている。可児市では、市の国際交流協会が主催する「介護ヘルパー2級資格取得講座」に、21名の外国人が参加した。ブラジル人、フィリピン人、インドネシア人、中� ��人など、いずれも近郊の工場などで働いていた元派遣社員である。
「仕事を失って、初めて自分自身に何の技術もないことの重大さに気がついた」と話すのは、日系ブラジル人のマツムラ・マルシオさん(30歳)。
「これまで、外国で働くということの意味が、よく理解できていなかったのかもしれない。日本という国が好きだから、やはり、この国で役に立つ仕事をしたくなりました。介護の分野で、ブラジル人が活躍するという環境が、当たり前になるように頑張りたい」(マツムラさん)
マツムラさんのように、ある程度の日本語能力があれば、コミュニケーションを要する介護職にも、躊躇なく飛び込んで行くことができるだろう。しかし、多くの外国人労働者、なかでも製造現場の主役であったブラジル人にとっ て、日本語の壁はあまりにも高すぎる。
"絶望の国"をさまよう外国人に手を差し伸べる制度も企業もなし
かたや、可児市のお隣にある美濃加茂市──。市街地の外れにある廃業したカラオケボックスには、住まいを失ったブラジル人たちが身を寄せていた。そのひとり、アドリアーノ・アントニオさん(32歳)は、昨年末から"ボックス住まい"を続けている。
「月に1万5000円で、オーナーから部屋を貸してもらっている。とりあえず寝ることはできるが、生活は不便。トイレも水道も、外に出なければならない。シャワーもない」(アントニオさん)
3畳にも満たない狭い個室には、カラオケ機材が置かれたままである。家財道具と呼べるものは炊飯器だけ。毎日、米を炊き、近所の弁当店で安い惣菜を買う。今月、いよいよ所持金も底を尽きそうだ。
「なんでもいいから仕事が欲� �い。なんだったら、あなたの助手でもいいよ」
アドリアーノさんは、カタコトの日本語で何度も必死に訴えた。
外国人政策に詳しい武蔵大学准教授のアンジェロ・イシさん(日系ブラジル人3世)は、次のように指摘する。
「ブラジル人も日本人も、そろそろ"デカセギ"ではなく、"移民"という概念を意識することが大事なのではないか。外国人が一過性の労働者と規定され続ける限り、彼らは単なる使い勝手の良い労働力として扱われるしかない」
日本では、外国人の受け入れに対して、慎重論が多いのは事実だ。「日本人も職を失って苦しんでいるのだから」と、雇用における外国人政策の不在を正当化する声も少なくない。
では、われわれが普段使っているPC、カメラ、自動車などは、彼らの手を借り ずして、これだけ大量に流通することができたのか?
仕事を失い、"絶望の国"をさまよい続ける日系ブラジル人たちの姿から浮かび上がるのは、移民政策の不在ぶりと、彼らを安い労働力としてのみ利用し続けて来た企業の身勝手さに他ならない。
(ジャーナリスト 安田浩一)
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